母親の味噌汁
どっちかというと洋食よりも和食の方が好きだ。
粗食で小食で面倒くさがり屋の私は、なるべく少ない手間で、なるべく少ない種類で、なるべく少ない光熱費で、なるべく多くの栄養素を摂取しようとする“ケチンボ”で“効率追求の合理主義者”である。
よって、食卓に上がるのは何もかもいっぺんに放り込んだ得体の知れない一品料理と、思い切り具沢山の味噌汁と、後は御飯と漬け物くらいである。
至ってシンプルだが、私にはそれで用が足りる。
身体を動かしていないから、多くのカロリーを必要としていないのである。
味噌汁には旬の野菜が何でも入る。
豆腐、ジャガイモ、大根、人参、油揚げ、ゴボウ、白菜、キャベツ、モヤシ、カボチャ、玉ねぎ、里芋、ニラ、カブその他。
当初の計画では“ほんの少し”作るつもりでも、具が次々に投入されるに至って次第に量が増えてしまい、最後には鍋からはみ出さんばかりなる。
まるで“大量の味噌煮込み野菜料理”だ。
これまで多くなると一回で食べきれないので、何日にも分けて食べることになる。
当然ながら何度も何度も暖め直す。
しまいには何もかも煮詰まってしまい、作った本人からしても“非常にまずい”ものを食さねばならない。
あまり精神の健康にはよろしくない状況である。
しかしながら、余りもののウドンを入れたり、残った素麺を入れたり、片栗粉でこってりとトロミをつけたのをご飯の上にかけて“味噌汁丼”にしたりと、色々な工夫を凝らして最後まで食べ抜く。
これは冬だけの特技だ。
夏は足が早いので必要な分しか作らない(つまり、具は1~2種類くらいである)。
何度も煮立てた味噌汁は味が濃縮され、風味も格段に落ち、普通なら食べられたものではないが、実の母親が作った味噌汁は不思議と美味しさが持続するのだ。
彼女は取り立てて特別な調理をしているわけではない。
イリコ(煮干)でダシを取り、いちょう切りにした大根やら人参やら、あと、輪切りにしたサトイモなどを適当に放り込むだけだ。
味噌は鹿児島の麦味噌。
それ以外に何もなし。
シンプル極まりない味噌汁だけど、これがどういうわけか、ものすごくウマい
煮えばなが美味しいのは全国共通だが、冷めてしまっても、冷めたものを熱し直しても美味しいのだ。
不思議だわあ。
しかも、“禁じ手”である暖め直しを何度もやる。
食べ切れずに余ってしまったときには、次の日にも同じ味噌汁が同じ内容で食卓に並ぶ。
それでも美味しいと感じてしまうのは何故だろう。
我が家の七不思議である。
自分でも東京で再現してみようと思うのだが、何かが足りないのか、何かが余計なのか、どうやってもうまくいかない。
全く同じ味噌、具を使っても同じものが出来ない。
中に入れる野菜類やダシの出自が関東と九州で微妙に違うというのもあるかも知れないけど(土壌の違いとか)、それだけではない何かがありそうな気がする。
子供の頃から長い時間に渡って仕込まれた味だから、味覚がヘンになっているのかしら。
味覚中枢の奥深くに“これは何があっても旨いんだぞ”と無意識のうちに刷り込まれてしまっているのかな。
舌が慣らされてしまったか。
だとしたら、私が同じものを作ってもウマいと感じないのはどういうわけだ。
もしかしたら、私達には未知の、何か特別な調味料を使っているのかも知れない。
今日も私は母親の味を再現すべく、美味しいホットな味噌汁作りに励んでいる。

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